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けんぞう見聞録 Vol.11
□日時:2004年3月10日(水)
□場所:神奈川県横須賀市、三笠公園
□内容:我、軍艦みかさに乗艦す!
出張で初めて訪問した横須賀市に、100年前に日露戦争で活躍した日本の軍艦「みかさ」が展示されていると聞き「そんな珍しいもんあるんやったら見て帰らんとあかんわ!」と思いさっそく見学してきました。「横須賀」といえば山口百恵の歌やダウンタウンブギウギバンドの歌でしか聞いたことのない町だったのですが「みかさ」を見学して戦争の歴史を振り返るいい経験になりました。
尚、解説文は「記念艦みかさ」のオフィシャルサイトより引用させていただきました。
●戦艦「みかさ」とは→
●なぜ「みかさ」が永久保存されているのか→
●甲板(外部)の様子→
●船内(内部)の様子→
戦艦「みかさ」とは
戦艦三笠は、3年の歳月と88万ポンド(当時880万円)の巨費を投じて、1902年(明治35)英国のヴィッカース造船所で竣工した新鋭艦であり、日露戦争中最初から最後まで連合艦隊の旗艦として活躍しました。明治37年(1904年)の黄海会戦でロシア大平洋艦隊の主力を撃破、翌38年5月27日の対馬沖の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と戦い世界の海戦史上例を見ない大勝利を得ました。指揮する司令長官は東郷平八郎大将。特に日本海海戦においては旗艦として先頭に立つ三笠は敵の集中放火を浴びながらも僚艦と共に敵艦隊に大損害を与え、片やわが三笠の損害は被弾三十余個にも拘らず戦死八名、負傷百五名と軽微でした。この海戦の大勝利が日露戦争の帰趨を決定、日本の勝利に導きました。
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なぜ「みかさ」が永久保存されているのか
永久保存には、二つの大きな理由があります。一つは明治37,8年の日露戦争のとき、日本海軍の連合艦隊の旗艦としての活躍です。明治37年(1904年)の黄海会戦でロシア大平洋艦隊の主力を撃破、翌38年5月27日の対馬沖の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と戦い世界の海戦史上例を見ない大勝利を得ました。次に時代は大正に入ります。大正10年(1921年)ワシントン軍縮会議が米・英・仏・伊そして日本の五カ国で持たれました。三笠は米国側軍縮案では廃棄艦リストに入っていました。日本側はこの名誉ある戦艦三笠を何とかして記念艦として永久保存したく、米英代表の提督に交渉しました。何とまっ先に賛成してくれたのが米国の提督。救国の記念艦ヴィクトリー号を持つ英提督も続いて賛成。二大海軍国の賛成に仏・伊も否応なく賛成。満場一致の除外決議が出ました。
強調しておきたいのは、三笠の永久保存は、ワシントンの国際会議の場で公認されたことです。こうして安住の地と決まったのが横須賀市稲岡町の海岸-現在地-。大正15年11月に三笠記念保存式が挙行されました。
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甲板(外部)の様子
もちろん軍艦に乗るのは初めての経験です。甲板から見下ろすと巨大な主砲が見え、サイドには副砲や補助砲が整然と並んでいます。最上艦橋と呼ばれる所には、司令長官である東郷平八郎が立って指揮していた場所が丸いプレートで表示されています。同じ場所に立ってはみたものの敵の玉 がビュンビュン飛んでくる洋上で命を懸けて戦った男達の思いはわかるハズもありませんが、それなりに感慨深いものがありました。
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船内(内部)の様子
内部は大きな展示室になっており、当時の様々な記念品が展示されています。その他にも司令官の居室やキッチン、また浴室や寝室なども残されており船内での様子を伺う事ができました。時間が少なかったので展示内容をゆっくりと見ることができなかったのが残念でした。それにしてもこのようなカタチで日本の軍艦が保存され公開されていることは後生に日本の歴史を伝える上でとても重要な事であると思いました。皆さんも機会があれば是非ご覧どうぞ。
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